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【19才~22才】

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高校を卒業する時、就職先を決められませんでした。

女として化粧をして仕事は無理と思い、プー太郎を決めこもうとしていた私に母から何かやりたい事が無いかと聞かれたので「カメラの仕事とか?」と答えたら知り合いの芸能界の人に「テレビ局のカメラと(AD)写真のカメラどっちにする?」と聞かれミーハー心をもっていた私は「テレビ局もいいなぁ」と言ったら、かなりハードな仕事で寝るヒマもなく使いすてだと聞かされたので「じゃあ写真で」みたいな軽いノリで就職。

車の免許も無いクソなまいき口をきく子供を心良く受け入れてくれたTさんありがとうございました。

そしてチキンでビビりのせいで神経性胃炎になり一年足らずで辞めてしまい申し訳ありませんでした・・・・。

今ならTさんの苦労やよくしてくださった事が理解できます。

カメラの仕事を辞めて、やはりお約束で新宿の夜の街、歌舞伎町の割烹料理屋で働くうちに近くにあった「おなべバー」に行く機会がありました。その当時(1990年)では男性ホルモンを打つ事はイケないとされてました。

その老舗のおなべバーの人達はオールバックかパンチパーマで仕立ての背広を着たダンディー風の優しい人達でした。

初めて女であって男として生きている人達にお会いした感想は「こんな風は嫌だな」でした。

こんな風とは・・・水商売だけでしか仕事が無いと背広とかを着る事にあこがれはありましたが、「オナべ」と言う職業みたいな事には興味はありませんでした。

しかし、当時は自分を表現できる所がそれしか無く、そのオナべバーでバイトする事になりました。

狭い業界では若いバイトが入ったとウワサが回るのが早く大型店舗に行っていた女性客が私を見に来たりしていました。

ある人は、私の母親の昔のホステス仲間で母の後輩だった事が判明!!「え~っ!!あの〇〇ちゃんの子供?!ちょっとぉ、やめてよぉ口説けなくなっちゃったじゃない」なんて言ったのですが実はマスターといい仲だったとか。

どーりでその人が来た日は私にマスターがキビしい感じだったワケだ。

ただマスターは20年位同棲している彼女さんいたんですよ。その後、修羅場があったとか・・・・。

2ヶ月位週2日位深夜から朝までバイトしましたが、あわないと思い辞めました。

その中でお客で来た4つ年上のM子さんとおつき合い、M子さんの部屋にころがり込むかたちで親元から離れる事ができました。

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この記事を書いた人

家族や過去の経験は私を形作る大きな部分ですが、50年以上のマイノリティなアイデンティティを通じて、自分自身と周りとの向き合い方を学んできました。「あなたの人生の答えを、自分で正解に。」この言葉は、生きづらさを感じるすべての人に送りたいメッセージです。魔法のようなワンステップロジカル思考術を通じて、私は自分の人生を根本から変える旅をしてきました。

この旅は、ただのスキルを超えたものです。自分自身が選んだ道で、出した答えを自身の正解に変えるための生き方です。これからも、マイノリティであることの力と、ライフデザインシンキングを提唱し、広げていきたいという想いを持っています。

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